富岡製糸場周辺のまちなかガイドを頼りに散策しては如何でしょうか

富岡のまちなか

富岡製糸場の住所は郵便番号370-2316群馬県富岡市富岡1番地1となっていることでお判りの通り、富岡の中心点です。此の地は、慶長17(1612)年、江戸時代初頭に新田開発によってまちづくりが行われ、徳川の直轄地 で、西には、加賀103万石、前田利家の5男、利孝(トシタカ)が大阪夏の陣の功績により、七日市藩として陣屋を築き、東には小幡藩の織田氏が支配することとなり、徳川の天下によって大幅な配置換えが行われ また。富岡は徳川の天領地で中野代官によって始められた新田開発は、今で言う「環境アセスメント」が取り入れられ、農地を潰すこと の無いように配慮され、最も地味の悪い場所が選ばれたようです。 又、中野代官は拠点となる陣屋の敷地(現在の富岡製糸場の一部)を確保しましたが、後に旗本の知行地(支配地の事)となり、陣屋の必要がなくなります 。明治政府はココを富岡製糸場の建設地に当てました

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上の地図で紹介しましたが 、「まちなか」には、幕末から明治、大正、昭和のレトロな建物が点在しています。徒歩にて1時間位で回れますので、是非散策してみてください。又、飲食店も、古くからの伝統の味を守り、昭和レトロな町並みの中でレトロな食べ物も味わってみてください。

➀富岡市役所

旧「富岡市」は、昭和29年4月1日に富岡町・小野村・黒岩村・一ノ宮町・高瀬村・ 額部村の2町4村が合併、市制施行して成立しました。その後、30年に吉田村、34年に福島町の一部、35年に丹生村を編入しました。妙義町は、昭和30年3月に妙義町と高田村が合併し、妙義町となりました。 平成18年3月27日旧「富岡市」と「妙義町」が合併し、現在の富岡市が誕生しました。人口:50,899人  参考資料:富岡市のHP 

②富岡倉庫

富岡駅の西に有る赤レンガ作りと大谷石、土蔵の倉庫で、現在は乾燥場の1階部分を食料品店が使用しています。かつては、繭の乾燥場でした。食料品店の二階は今でも、乾燥場が残っています。 (見学不可)レンガの積み方は、富岡製糸場(フランス積み)とは違うイギリス積みとなっています。 建設は明治23(1900)年と言われています。富岡製糸場の近くにありますが、富岡製糸場とは特別な関係は無かったようです。

③上州富岡駅

上州富岡駅(じょうしゅうとみおかえき)は、群馬県富岡市富岡にある上信電鉄上信線の駅です。世界遺産リストに登録された富岡製糸場の最寄り駅でもあります。2014年3月17日に3代目駅舎の開業式を迎えました。3代目駅舎の建替に伴い2010年に上州富岡駅舎デザイン検討委員会を設置し、2011年に上州富岡駅舎設計提案競技を実施。全国から施設提案の一般公募を行い、応募総数359件から最優秀案に選ばれた武井誠+鍋島千恵/TNA(ティー・エヌ・エー)の設計により建替が進められました。2011年から2013年にかけて群馬県、富岡市、上信電鉄、観光まちづくり団体、地元市民、設計者等を交えた「駅まち会議」で建替えの方向性の議論を行ました。2013年3月に着工し、2014年3月17日に3代目駅舎の開業式を迎えました。参考資料:ウィキペディア

第12回ブルネル賞受賞   2014年度グッドデザイン賞受賞

④ときわ荘

上州富岡駅から東に徒歩3分の場所に有る割烹旅館です。昭和13(1938)年に建築されました。総桧造りで瓦を一日に三枚づつ敷くなど、約3年の歳月をかけて建造されたと伝えられています。間取り構成は現在でも充分に機能され、建築的にも高度な技術と材料が使われています。建築材料は良質材が使われており、柱造作材には檜の無垢、玄関の床板、天井板、客室の天井板には銘木材が使われています。各客室は南東の庭に面した和風平屋建ての雁行配置となっています。各部屋は、建築主が老後を静かに過ごすため建てられた住まいと考えられています。特に、これらを構成する納まりもきめの細かなディテール(全体の一部)となっています。2008年12月に、伝統的な和風の技術建築の美しさから国の登録有形文化財に指定されました。参考資料:ときわ荘HP

⑤富岡諏訪神社

諏訪神社の創建は不詳ですが諏訪大社(信濃国一之宮:長野県諏訪地方)の分霊が勧請されたのが始まりとされます。当初は甘楽郡宮崎村(現在は富岡市宮崎 貫前神社西方の小高い場所)に鎮座していましたが天正18年(1590)宮崎城が豊臣軍の上杉勢に攻められ落城、その後徳川家康の重臣奥平信昌が3万石で入封、慶長6年(1601)に信昌が美濃加納藩(岐阜県岐阜市)に移封になると宮崎城は廃城となり城下にあった民家は新田開発にが行われていた富岡に移され、それに伴い諏訪神社も現在地に遷座しました。江戸時代に入ると幕府から庇護され3代将軍徳川家光から社領10石が安堵し朱印状が発布されています。祭神は建御名方之命、八坂刀売之命。境内社は大国神社、琴平神社、秋葉神社、神明宮、市場神社。

現在の社殿は昭和9年(1934)に群馬で陸軍大演習が行われ、それに伴い大改築したもので拝殿は入母屋、平入、桟瓦葺、桁行5間、正面1間唐破風向拝付、木鼻には獅子、漠、向拝には精緻な龍と神子の透かし彫が施されています。本殿は一間社、切妻、銅板葺、平入、正面千鳥破風、1間軒唐破風向拝付。2014年 に社務所が新しくなりました。参考資料:群旅ドットコム

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⑥神部医院

富岡の町の中では類を見ない木造3階建で、昭和10年から診療所を開いて、今でも毎日診療を行っています。残念ながら中の様子は診療ということも合って伺い知れませんが、昭和のレトロな感じは、外壁の土壁や下見板張りから容易に想像がつきます。個人宅なので敷地内に入ることは出来ませんのでご注意下さい。

⑦旧吉野呉服店

旧吉野呉服店は富岡製糸場の門前にて明治8(1875)年に吉野藤作商店として創業しました。現在の建物は明治33(1900)年に現在の地に完成されてたと言われています。店蔵と和館が並んで立ち、1階部分は「なまこ壁」2階部分は白漆喰の上に下見板張り黒漆喰も施されています。屋根は影盛で鬼瓦や建物を豪華に大きく見せる工夫がされています。蔵が店よりも前に出ている「見世蔵」としての性格も十分です。お店は平成10(1998)年まで営業していました。中に入って観ることは出来ませんが。床面にガラスが張られた廊下や、細工が施された欄間が有るそうです。富岡商工会議所がこの建物を取得し、現在の商工会館を西に150mの此の地に移す計画が2015年2月8日に判りました。

「吉野藤」(高崎)創業者の吉野藤一郎は藤作の長子 歌人で晩年は良寛研究科の吉野秀雄は藤作の孫 幼少期から病弱のため祖父母の富岡の地にて療養(藤一郎の次男)慶応義塾大学に進むが肺結核のため中退。没後に芸術選奨を受賞 富岡のことは「製絲場の 枳殻垣に 添小道の 小春日きして繭乃にほいす」と読んでいます。「國光」(高崎)創業者の吉野五郎は藤作の孫(藤一郎の子・秀雄の末弟)参考資料:高崎新聞HP 2014年に富岡商工会議所がこの地を取得しました。

建物部分の解説

下見板張り

下見板張り

横羽目板壁の一種で、上方の板の下端を下方の板の上端に羽重ねにして張る方法。各段の板の傍(そば)(板の長手方向の木口)が下側にみえる形になるのでこの名があり、また鎧(よろい)の錣(しころ)に似ているので鎧張りなどとよばれることがある。板を平坦(へいたん)に張るよりも雨水の浸透を防ぎやすいので、和風、洋風とも木造建築の外壁に使用される。

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鬼瓦影盛

鬼瓦の影盛

鬼瓦と箱棟の間を漆喰で盛られた部分を影盛と呼びます。渦巻き型に塗り上げ 漆喰で固め、鬼瓦を引き立てる工夫がされています。おそらく、商家の間で贅を競った結果だとは思いますが、店全体の間口に対して釣り合いを欠いて見えるほど大きくなった物が川越等に残っています。

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⑧大黒屋

江戸末期の土蔵の建物で、かつては醤油や味噌の製造を行っていました。和洋の酒類の販売も行っていたようです。 かつては敷地内に醤油樽や味噌樽がありましたが、現在は駐車場と小さな蔵を改造したブックカフェになっていて商品の販売は中止しています。最近までは1階が店舗で、2階が倉庫となっていたようです。 東隣りの東和銀行の駐車場から裏に回ると、その全容がうかがえます。個人宅なので敷地内に入ることは出来ませんのでご注意下さい。

⑨福澤邸

明治の中頃に建てられた建物で、3棟の土蔵が雁行(ガンコウ)して並んいるのが特徴です。現在は蔵の前に家が新築され、通りから 見えづらくなっています。蔵はなまこ壁と白漆喰で仕上げられ建創当時が忍ばれます。奥には大きな庭園や朱塗りの鳥居等が有りお稲荷さんも祀られているそうです。個人宅なので敷地内に立ち入ることは出来ません。

⑩浄土宗 宮崎山 宝国院 龍光寺

此のお寺も諏訪神社と同じ、甘楽郡宮崎村(現在の富岡市宮崎)から移転されました。元和3(1617)年の検地帳に記載がありますので、それ以前に移築されたと考えられます。境内の板碑(県指定の文化財)や梵鐘(県指定の文化財)は室町時代の特徴を持っていて、これらも宮崎村から運ばれたもの思われます明治6(1873)年の学制によって富岡小学校の仮教場をこの地で開校しています。官営富岡製糸場時代に全国から集った工女の中には、故郷を離れての慣れない集団生活と慣れない労働のため、若くして病に倒れ、この地で夢半ばで亡くなり故郷に帰れない人もいました。富岡製糸場建設に深く関わった「韮塚直次郎」の妻(みね)が彦根出身者であったことから、職を失った士族が数多くいた彦根の事情が知れ、直次郎と妻みねは彦根に赴き工女集めを進めました。こうして、富岡製糸場には彦根士族の子女達を中心に滋賀県出身者が多数雇われ、その数は明治9年~12年には452人、全工女の約3割に達していましたので、彦根出身者のお墓が多く残されています。伝染病の「コレラ」で死亡した最年少の「清水 源」(当時9才10ヶ月)は仲間の工女たちがお金を出し合ってお墓を建造したそうです。龍光寺には、明治7年から民営化後の明治34年までの工女の墓が48基余り有ります。製糸場 から東の方角にある海源寺にも明治6年~明治9年に亡くなられた工女(2名)工男(1名)のお墓が有ります。 参考資料:龍光寺のパンフレット:滋賀大学経済学部HP:群馬県指定重要文化財の梵鐘:富岡製糸場工場の墓:天然記念物の大銀杏(樹齢推定400年)右側:重要文化財の板碑

龍光寺の文化財

板碑

板碑

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大銀杏

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梵鐘

梵鐘

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富岡製糸場 工女の墓

工女の墓

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⑪坂本医院

大きな切妻屋根が特徴で上町通り沿いの歴史的建造物の中でも多きな存在感が有ります。1階部分の外壁は黒朱塗り、大名石で構成されている所が時代を感じさせます。明治26年に建てられた土蔵造りの建物で 、明治期は呉服店を営んでいました。隣接した奥の洋館は昭和9年に建てられ、外壁が石貼り、瓦屋根の洒落た建物で現在は診療所として使用されています。個人宅なので、敷地内に入ることは固く禁止されています のでご注意下さい。

⑫煙突の見える絶景ポイント

上町通りを七日市方面に行くと、龍光寺の手前に歩行者用の信号が見えます。南側(龍光寺の反対側)に峯岸歯科医院が有りますのでその手前のT字路(一方通行なのココからは車は入れません。車の方はその先150m左側に有料駐車場があ有りますのでご利用下さい)を左折します。普通自動車がすれすれで入る路地を100mも行くと十字路に出ます。十字路の左右が西銀座通りです。突き当りは製糸場の北側のブロック塀にあたります。ここから観る製糸場の煙突(4代目で高さ37.5m直径2.5m)は絶景ポイントです。 建設当初の煙突は、直径4.4mのレンガ積みの台座に鉄製の筒を積み上げ36m迄伸ばし四方に鎖を張って支えていましたが、明治17(1884)年9月15日に九州上陸した台風と同月17日に上陸した台風のため初代の煙突は倒壊しました。十字路の角にある「藤屋」は創業昭和8年の日本料理店です。かつては富岡製糸場の重役さんが接待で使用したと言われています。現在も慶弔時の席で利用されています。お客様の用途に応じ部屋のしつらえを変えるなど。おもてなしの心を大切にしているそうです。

⑬江原時計店

宮本町と城町が交差する場所に位置する、明治45年創業の時計屋さんです。建物は大正末期に消防小屋として建てられました。モダンな建物の最上階は6角の火の見櫓でした。(現在は使用されていません)2階は部屋で、消防士が詰めていたのでしょう。1階のお店の部分は、消防車の車庫となっていたそうです。店の創業者は東京アメ横辺りで時計店を営なみ当時は「ネジ屋」と言われていたそうです。浅草六区で芝居小屋のネジ巻きをしていたそうです。

⑭トミラクの赤レンガ倉庫

富岡製糸場の繭倉庫を思わせる瓦葺きの赤レンガ倉庫は、宮本町の中程から少し南に位置する駐車場の中にあります。この倉庫は昭和2年~12年に酒造設備として建てられたそうです。創建当時はもう1つ倉庫が有りましたが、現在は取り壊されて、駐車場となっています。この倉庫の煉瓦の積み方は、製糸場の東繭倉庫とは異なり「長手積み」となっています。

⑮横山陶器店

宮本町の中ほどに有る陶器店です。建物は明治の中期ころに建設さたそうです。北の路地を入ると、4間程のなまこ壁が続いています。トタン板で覆われていますが、土蔵の壁が有るのが確認できます。土蔵の奥には大きな「うだつ」が見えます。うだつの下にはなまこ壁が残ています。

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⑯櫛渕邸

仲町通りの富岡郵便局の斜前にある、切妻屋根が特徴な重厚な建物です。タイルで覆われたうだつや外壁は伝統的な建物に近代の素材が上品に取り入れられています。建設は明治の中頃と言われていますが、電話番後は3番で、富岡製糸場が13番でしたから、歴史を伺うことが出来ます。

⑰カトリック富岡教会

昭和29(1954)年ローマ・カトリック教会浦和司教区・高崎小教区から富岡地域宣教のためフランシスコ・フローリー神父が派遣され布教が始まりました。当時、敬虔な「甘楽教会」の信徒の「宮 たか」がカトリックに改宗し、同年11月に現在の地の西隣りの篠原邸の一部の土地を購入して会堂としました。その後、甘楽教会の信徒数名がカトリックに改宗し、現在は100名近くの信者がいるそうです。現在の建物の前身は、明治25(1892)年質屋として建てられ土蔵造りだったそうです。その後、油屋、病院として利用されていたそうです。

⑱道幅1.6mの県道

諏訪神社の鳥居から南に、宮本町の中程から西に入る横丁のような細い道があります。道幅がたった1.6mしか有りませんが立派な県道です。明治の中期頃には、県道としての記録があり、今でも生活の道路として、富岡製糸場への近道として利用されています。この道路の突き当り付近から西側は、「通称飲み屋街」で夜になると、千鳥足の方々が、赤ちょうちんをめがけ、のれんをくぐる姿を見ることが出来ます。

⑲成田山(不動堂)

瀬下通りの富岡警察を東に200m行くと左側に「しののめ信用金庫東支店」が見れます。その東隣の奥まった所にお堂があります。この不動堂は、この地に古くからあった、修験者多治見福寿坊の内仏堂でした。この堂は、亨保元(1716)年の創建と言われ、福寿防第23代多治見賢友氏が不動尊を勧靖したのが始まりと言われています。その後、多治見福寿坊が敗坊となったため明治17(1884)年下総植生郡成田村、成田山新勝寺において不動尊を再開眼奉安し成田山分霊所として公称することを同年3月に許可されたお堂です。お堂の外部周囲には、中国の故事にならってと思われる数多くの漆喰彫刻が施され、内部には、天井いっぱいに龍が駆け巡り(損傷激しく保存撤去)周囲には龍や鶴など沢山の極彩色の漆喰彫刻が施されています。

⑳日蓮宗 朗惺山 本城寺

瀬下通りの富岡警察署のT字路を南に30m行くと、変則の交差点をがあります。左に蔵の有る民家を右に見ながら、50m行くと豪華な山門と3本の石柱があります。ココが本城寺です。このお寺も、元々は宮崎村(現在の富岡市宮崎)から移転してお寺です。元和3(1617)年の検地帳にも記載があります。現在富岡市宮崎に「本城寺」という地名が残っていますので元々はその場所ににあったと想像がつきます。本城寺の鬼子母神は子どもの健康を祈祷することがはじまりで、本城寺境内から仲町通り一帯に露店が軒を連ね、稚児行列が行われます。本来は、日蓮上人の亡くなった法要で御会式といい、11月12日が祭日で、夜御取子の式を行います。御取子は数え年七歳までの子が法華経守護神の鬼子母神の弟子となることで、その健康を祈り加持祈祷するものです。参詣者は本堂に上がって毒鼓を打って祈祷し、鬼子母神堂前で線香をたき身潔めをします。この縁日には、本城寺境内・外に露店が並び賑わいます。

番外 日本基督教団 甘楽教会

明治16年に6月、安中教会の信徒・茂木一郎が南後箇村(現在の富岡市南後箇)にて、キリスト教の伝道師として布教を始めます。キリスト教の教えに賛同した方が30名(男性20名女性10名)ありましたので、聖書を読んだり安中教会に出向き説教を聞いたりします。 同年11月には安中教会から海老名弾正・田嶌一斉・茂木平三郎や前橋教会から蔵原惟郭、高崎教会からは星野光多の5名で南後箇で初めて説教会を催します。その時の聴衆は150~160名だそうです。 同年12月には茂木平三郎が伝道師として聖書の教えを説いて聞かせたり、聖日礼拝や日曜学校、夜の集会を定ます。その後洗礼者が35名となり、明治17年2月20日に甘楽第一キリスト教会として南後箇村 (現在の富岡市南後箇)に斎藤寿雄(初代群馬県医師会会長や県議会議員~国会議員を歴任)の尽力で設立され ました。1887年(明治20年)9月、高瀬村(現:富岡市中高瀬)の斎藤寿雄の自宅に仮会堂が移り、明治21(1888)年12月に富岡製糸場の正門近くに新会堂が移ります。現在は、幼稚園を併設した七日市(富岡製糸場の西)に昭和29年に大谷石作りの礼拝堂が建設されます。 明治38年8月21日には、製糸場で働く少女青年のために集いが開かれ、工女や青年達の休日である1日には説教および賛美歌の練習や集会が開かれました。 出席者は9名という記録が残っています。明治17年は上野・高崎間が開通した年で 、富岡は山中の小都市ですが、製糸場が設置され有名な土地となりました。 また、甘楽教会の教会員達は、医師で国会議員の斎藤寿雄の提唱で廃娼運動や女子学校の設立などの女性教育及び女子の人権回復のために尽力しました。さらに、斎藤寿雄は早くから幼児教育の重要性を感じ大正10(1921)年に幼稚園を 開設し、富岡女学校の設立にも関わります。現在も変わらず幼稚園(甘楽幼稚園)は運営されて続けています。甘楽教会は富岡の街の歴史の中で重要な要素であり、文化資源と言えると思います。 甘楽教会の 大谷石造の礼拝堂は富岡市の行った調査により、歴史的建造物・洋館とされています。

明治17年2月20日に設立した集会には同志社神学校生で新島襄の薫陶受けた海老名弾正熊本バンド) 「NHK大河ドラマ 八重の桜」の後半(37話)頃から海老名喜三郎 名で登場しています。阿部亮平が演じました。、湯浅治郎(安中市出身)蔵原惟郭、(熊本バンド)星野光多長田時行、山崎塊らの明治から昭和にかけて活躍した牧師や、政治家の名前が見えます。

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尾高惇忠 富岡製糸場 初代場長

ポール・ブリュナ 富岡製糸場の建設のために雇われたフランス人技師たち

創業当時の繰糸場の写真

水分検査機
ポール・ブリュナが明治4年、フランスに発注した物、水分検査機

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