富岡製糸場の歴史

世界遺産で国宝の富岡製糸場

明治政府は、これまでの粗製乱造の生糸輸出問題を解消するため、イタリアやフランスのように大規模な機会製糸工場を作り、良質な生糸を生産し、富国強兵を前進させるべく、明治2年2月(1870)明治政府は大規模な製糸場の建設を決断します。同年6月に建設の基本計画を決定します。

伊藤博文

伊藤博文

当時は大蔵少佐・後に初代の内閣総理大臣

伊藤博文(当時・大蔵少佐)と渋沢栄一(当時・租税正)は、フランスの東洋銀行代理店長を兼ねているカイセン・ハイメルに相談したところ、フランス人技師、ポール・ブリュナを紹介されます。

ポール・ブリュナ

ポール・ブリュナ

(1840年6月30日 - 1908年5月7日)は、フランス人の生糸技術者。お雇い外国人として、富岡製糸場の設立に携わった。

渋沢栄一はブリュナと明治政府の通訳をし、仮契約を結び、製糸場の適地の選定をブリュナに任せますが、松井清蔭を同行させます。

渋沢栄一

渋沢栄一

官僚、実業家。日本資本主義の父といわれる。理化学研究所の創設者。

東京附近と武州(現:府中・国分寺辺り)上州(現:群馬県)信州(現:長野県)方面の養蚕地を調査し富岡と決めます。同年閏10 月7 日、民部省はブリューナ雇い入れの本契約(月俸600$+150円=750円:現在の価値では約750万~1,500万円位でしょうか)を締結します。(県令の給与は300円) この空大な事業は日本の資本では無理ではないか?との懸念が有り外資でとの提案がありましたが、安政5年(1858)に締結された、修好通商条約に、外資導入が抵触する疑いが有り、伊藤博文は外資導入ではなく、日本の資本で建設する事を決めます。

富岡が製糸場建設の場所に選ばれた訳は?

交通不便な富岡より、水路のが発達した「利根川沿い」が良いのではと言う意見もありましたが、ブリュナは近々日本も鉄道が開通するので、その問題はクリアされるので問題無いと説明し ています。

❶富岡近辺は旺盛な繭の産地で優良な繭を確保できる。         

➋妙義山よりの水源は清らかで確保すれば取水することは容易である。建設予定地の下には、鏑川の清流が有り、汲み上げれば水量も豊富で利用できる事に着目しました。しかしこの地の人口は、わずか2,115人と少ないが、山水明媚で製糸業にはうってつけで有る。参考文献:藤本実也著「富岡製絲所史」

一般的には、富岡が選ばれた理由は以下のようです。

  ➀生糸生産のための原料の良質の繭が、周辺の養蚕地域から得られる。

②製糸に必要な良質の水が、付近を流れる高田川や鏑川から得られる。

③蒸気機関を動かすための燃料が得られる。(亜炭を現在の高崎市寺尾町金井炭坑から採掘)

④広大な敷地が確保でき、地域住民も製糸場建設に同意した。(中野代官が確保した陣屋予定地:3町3反20歩)

カイセン・ハイメルは「製糸場の建設許可をいただければ、我々の資金で建設します」と申し出るが、伊藤博文は修好通商条を盾に、それを拒否します。更にカイセン・ハイメル は「明治政府が監督し資金は我々が.....)伊藤は外国の商人(貿易商)がここまで熱心なのは、製糸の運営は利益が出ると確信して、この計画を民部・大蔵両省に下します。 それは明治3年(1870)2月のことでした。

尾高惇忠

尾高惇忠

明治3年11月、尾高惇忠は建設予定地に赴き、代官屋敷予定地と周りの土地を確保するため、明治政府に土地買い付けの伺書を出します。(面積15.608坪 1段当り25両 合計1,210両)。近隣の住民からは、外国人が沢山来て、見たこともないような大きな建物を立てることに反対しないよう同意書を取ります。明治4年(1871)1月にはブリュナは、製糸場の設計を横須賀製鉄所の建設に携わったバスチャンに依頼し、自分は機械購入のため一旦フランスに帰国します。尾高は製糸場建設のための資材の手配を進めていきます。同年4月13日に、明治政府は富岡の地に代官屋敷予定地を核とし、殖産興業政策の一環として模範機械製糸工場の富岡製糸場の建設に着手します。翌年(明治5年)7月に建物が完成し、同年10月に創業を開始しました。 現在は当時のままの姿で、繰糸場の内部やレンガ作りの繭倉庫(一部は外部のみ)が見学出来ます。参考文献:富岡製糸場記全  平成18年度修士論文 近代産業遺産としての旧富岡製糸場の評価に関する研究

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富岡製糸場創立の模様

1)この大事業の創立関係者は、玉乃正履(民部権大丞)、杉浦譲(地理兼駅逓権正)、尾高惇忠(庶務小佑)、渋沢栄一(大蔵小丞)、中村佑興(監督正)が民部省より発令され、ブリュナと共に直ちに現在富岡に赴き敷地買収を完了しました(面積15.608坪 1段当り25両 合計1,210両)。

2)富岡は東京より120kmの行程にあり、当時の戸数620戸、人口2,115人であったと記録されている。

3)土木建築の意匠は、ブリュナが担当、工場建築群の設計者はブリュナの推すバスチャンに依頼した。{バスチャンは、幕府が横須賀製鉄所(後の海軍工廠)建設のためフランスから招いた技術者の一人である。}

4)設計図は明治3年12月26日完成、条約第3条に「建設はブリュナ氏へ問い合わせの上、日本政府は之を定むべし」から推して、バスチャンの設計図に基き(すべてメートル法による設計)実際の施工(造営)は日本政府が行ったものといえよう。

5)建築資材……明治4年正月、尾高惇忠等は一切の建築資材の入手準備を開始、何分、当時日本においては想像もしない煉瓦2階建の大建築であったことから、未曾有の苦難が伴ったことがうかがえる。

しかし、この苦心は大工場の創設を機に、富岡を中心とした甘楽地方また群馬県下はもとより我が国の近代産業を発展させる母体となったことは特筆すべきことである。

① 石材……小幡町町谷の連石山(長厳寺の裏山)から採掘、現存する礎石その他でもわかるように非常に重く、「ねこ車」(建設現場等で見る一輪車)で運搬された。

② 木材……すべて官林伐採といわれ、杉材、欅材は妙義神社の山林を、小材は近傍山林にもとめた。松の大材は吾妻官林を伐り、運搬は吾妻川を筏で下って利根川に合流し、伊勢崎と本庄の合流点から鏑川を遡るという大変なものであったらしい。

③ 石炭……蒸気缶(ボイラー)燃料は石炭が最良であることも知らない当時の人は、ブリューナの要請によって事前に近在一帯を踏査したところ寺尾村において岩塊を発見、これが石炭(亜炭)であったことに驚きかつ喜び採掘に成功す。

④ 煉瓦……(当初煉石といった。)―煉瓦という文字もなかった時代、ブリューナは瓦焼職人に手真似で煉瓦というものを教え込み、福島町笹森稲荷前に窯を築き大量焼成した。※稲荷前の粘土層の山は忽ち平地となり、遂には窪地になったと郷人は語り伝えている。

⑤ 瓦……日本建築にも使用され各地に瓦窯もあったが、福島町に工場を設け製造した。

⑥ セメント……煉瓦の目地として必要欠くことのできないものであるが、煉瓦すら初めて焼いた明治初期、セメントなど到底およびもつかなかった。ブリュナ、バスチャンから性状組織を聞き下仁田町青倉の石灰を主材としてセメント類似の漆灰を目地に使用した。

こうして官民一致協力によって1年と7ヶ月後には、主要建物及び付属建築物が建設された。……時まさに明治5年7月であった。

ちなみに大蔵省の創立諸費用は198,572両、洋にして86,016$と記録されている。(ただし、この事に関渉した官員給料、旅費を除き、フランス人の明治5年10月開業までの給料、賄料を含む。)

(注)ブリュナは明治3年12月条約に随ってフランスに赴き、製糸機械一式を購入、同時にフランス人技師3名、女教師4名をはじめ13名を傭い入れて翌4年帰日する。

6)主要建造物( )は当時の名称である。

① 東繭倉庫(東置繭所)

長さ 104.4m <34丈4尺5寸>

巾 12m <3丈9尺6寸>

高さ 14m <4丈6尺2寸5分>

建築面積 1,527㎡

延床面積 3,048㎡

[柱=屋内中央列の柱は完全に棟まで、また側柱も軒桁までの夫々通し柱で共に30cm角である。]

② 西繭倉庫(西置繭所)

平面構造においても①と変らない。ただし、中門(通路)がなく窓数が異なる。

③ 操糸場(繰糸所)

長さ 141.8m <46丈8尺>

巾 12.6m <4丈1尺7寸>

高さ 11.8m <3丈9尺1寸>

面積 1,739.24㎡

[柱=30cm角通し柱である。]

※現在の建築学権威者は、誠に見事な設計であると激賞している。

④ ブリュナ館(首長館)

内部を改造し、片倉富岡高等学園の諸施設に利用した時期もある。講堂の床下には当時フランス人の食糧品貯蔵庫として使用せる、煉瓦造地下室(3室)が現在もなお残されている。

⑤ 事務室及び食堂、休憩室(2号館:検査人館 3号館:女工館)

④、⑤はいづれも木骨煉瓦張壁、ベランダ付、煉瓦葺の住宅風建築

⑥ 女子寄宿舎2棟、当時敷地北側にあったが、三井に移管後現地へ新築し当時のものはない。

⑦ その他

引水溝、下水溝、井戸、鉄水槽(明治7年設置)等現存するが、近代経営と相まって、ボイラー室及び煙突は改設され当時の面影はない。※我が国最初に設備された工場用蒸気エンジンは、現在愛知県犬山市明治村の博物館に保存されている。なお、鉄水槽(376㎡)は当時フランスの軍艦製法を採り入れたもので、構造等貴重なものといわれている。

以上、今日なお健在を誇っていることは、基礎の強固なこと、木骨張壁構造の合理性に加えて堅牢明快な工作等が起因しており、柱の変動沈下を全く防止したことにあるといわれている。

3.開場

1)明治5年に入り建設工事は大巾に進捗し、女子従業員と原料繭の収納準備を開始し、創立主任者尾高惇忠(初代工場長)は、卒先郷里より長女ゆう(当時13才)を入場させたほか、各県から当時の戸長及び旧藩士の子女が404名入場した。
徳富音羽(徳富蘇峰の姉)が入場していたとのHPや本が有りますが残念ながら、徳富家は熊本県に居住していました。富岡製糸場の記録(明治5年~明治17年)では、熊本県から工女の入場記録は有りません。落美は牧師の大久保真次郎と音羽の間に生まれ、群馬県高崎市の高崎協会に赴任します。 明治28年には、群馬県前橋市の共愛女学校予科に搬入が許可されます。後に久布白直勝(牧師)と結婚します。

2)明治5年10月4日、栄えある歴史的な開業の汽笛が高らかに鳴り響いた。思えば、この汽笛は日本近代産業の第一声であり、わが国製糸工業としての第一歩であった。

3)入場した子女たちは伝習生としての誇りも高く、「近代日本の発展」の大理想に燃えて、フランス人女教師から熱心に技術を習得した。技術習得して帰郷した子女たちは、いわゆる「富岡乙女」の名声のもとに全国で活動し、我が国産業の近代化と機械製糸工業の発展に活躍し、大きな貢献とその使命を果している。

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世界遺産ドーハ会議(ユネスコ)

富岡製糸場と絹産業遺産群として、2014年6月に世界遺産に登録されまた。2014年12月10日には国宝に指定されました。2014年6月23日に富岡製糸場がイコモスの勧告通り、カタールのドーで開催された。第38回世界遺産委員会において審議が行われ、平成26年6月25日に世界遺産一覧表へ正式に記載されました。6月23日の会議の様子です。

決定的瞬間間は7分15秒から  YouTubeでお楽しみ下さい

工女の待遇

「フランスの男たちは、女子の生き血を吸い取る」(赤ワインを飲んでいた)と言う噂が出まわり、工女募集が捗らないので、明治5年(1872)9月15日、明治政府は、東北各県に対して繰糸伝習工女雇入心得を布達しています。その噂を払拭するため、尾高惇忠は、長女の勇(ゆう)を伝習工女第一号とします。後には、小松鉄道大臣の妹、侯爵井上薫の姪、鶴子、仲子、長州藩の重臣長井雅楽の長女貞子、等、知名の子女が多数含まれていた。
労働時間 1日平均7時間45分 
雇用年齢 12歳以上(12歳以下の雇用を禁止しています)
賃金体系 賃金体系(当初から能率給)1等工女 1円45銭(一ヶ月)2等工女 1円15銭 3等工女 1円  等外工女 75銭 明治7年4月から8等級に改定。横田英(和田英)の富岡日記では、月給は、1等:1円75銭、2等:1円50銭、3等:1円、中廻り、1円と記しています。
福利厚生 日曜制の導入(日曜日は休日)フランス医師による診療(企業内診療の創設)診療費や薬代入院費用は無料 食事代の個人負担はなし 夏・冬服料として年間5円を支給
休暇日 日曜日(年50日)・夏休み(年10日)・諸祭日(年6日)・万聖節(ハローウィン)・年末年始休(年10日)・天長節(明治6年より)合わせて78日の休暇日を設けた。
食事 1日と15日と28日(江戸時代の登城日=月次御礼)が赤の飯に鮭の塩引、それが実に楽しみでありました。朝食は汁に漬物、昼が右の煮物、夕食は多く干物などが出ました。しかし働いて居ますから何でも美味に感じましたのは実に幸福でありました。
尾高様は折々御飯を食べて御覧になりました。或時臭いの付きました御飯を配る所をお見付けになりまして、賄の頭取が出されまして大騒ぎでありましたが、その後ようようお詫びがかな叶いまして、その後は決して悪しくなった物を出しませんでした。     
和田英著:「富岡日記」より抜粋

横田 英(和田 英)「富岡日記」より 抜粋  私の身分 より抜粋

私の父は信州松代の旧藩士の一人でありまして、横田数馬と申しました。明治六年頃は、松代の区長を致して居りました。それで信州新聞にも出て居りました通り、信州は養蚕が最も盛んな国であるから、一区に付き何人(たしか一区に付き十六人) 十三歳より二十五歳までの女子を富岡製糸場へ出すべしと申す県庁からの達しがありましたが、人身御供にでも上るように思いまして一人も応じる人はありません。父も心配致しまして、段々人民にすすめますが、何の効もありません。やはり血をとられるのあぶらをしぼられるのと大評判になりまして、中には「区長の所に丁度年頃の娘が有るに出さぬのが何よりの証拠だ」と申すようになりました。それで父も決心致しまして、私を出すことに致しました。.........中略 「お英さんが行くなら私も行きたい」と申しまして、直に行くことになりました。さあこのようになりますと不思議なもので、私の親類の人、または友達、それを聞伝えて、我も我もと相成りまして、都合十六人出来ました。後から追々願書が出ましたが、満員で下げられました。.......

富岡町出発並びに高崎見物より道中 より抜粋

もはや人力車が富岡町に沢山ありまして、それに一同乗りました。折悪しく途中から大雨になりまして、桐油をかけました。只今と違い上から袋をかけたようになりまして、その匂いに酔った人がありまして、病気に罹った人もありました。一同大閉口致しました。しかし高崎に着致しました頃は晴れまして、同地の知人(富岡に出て居た工女にて帰宅した人々)も幾人か宿屋へ尋ねくれまして、同地にて糸を繰り居る所も見に参りましたが、皆七輪で炭火でありました。兵営なども見物致しまして、その日は同地に一泊致しまして、その翌目は坂本に泊り、翌日たしか碓氷峠を越しましたが、段々旅費が不足になったと申すことで、皆草鮭をはきまして越しました。能く覚えませんが軽井沢に泊ったようにも思います。......

夏には、部屋に閉じこもっていては健康に良くない、とフランスの医師言われ、夜の8時半頃から中庭に出て、運動を始めています。それがいつしか、盆踊りの体をなし、出身地の対抗戦の様になっていくこと等が書かれています。「富岡日記」是非一読ください。

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富岡&富岡製糸場情報

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尾高惇忠 富岡製糸場 初代場長

尾高惇忠

ポール・ブリュナ 富岡製糸場の建設のために雇われたフランス人技師たち

ポール・ブリューナ

創業当時の繰糸場の写真

繰糸場

水分検査機  ポール・ブリュナが明治4年、フランスに発注した物、水分検査機

水分検査機

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