新田開発の際に代官が陣屋地として策定していた広大な土地が、後の、明治政府の殖産興業政策の一環として富岡製糸場の設立地となりました。

 

富岡製糸場の有る富岡の歴史

富岡は慶長17(1612)年に突如として町づくりが始まりました。同年4月1日に検地(土地の測量)が始まり、その結果、最も地味の悪い地が新田開発に選ばれ、開発が行われ、元和3(1617)5月2日にまちの骨格が完成し、この日を以って富岡町という町名が付けられました。

富岡は計画的に町づくりが行わたた町といえると思います。新田として出来た町は、砥沢村(現・南牧村)から大量に質の良い砥石が産出され幕府から手厚く保護(御蔵砥)され、江戸への輸送の中継地として、鏑川流域の中核的小都市として発展します。

又、新田開発の際に代官が陣屋地として策定していた広大な土地が、後の、明治政府の殖産興業政策の一環として富岡製糸場の設立地となりました。

富岡の古地図

黄色部分が富岡の町並み 1837年(天保8年)後の富岡製糸場は左下の陣屋予定地。

江戸時代の富岡の地図クリックで拡大画像

上の絵図は現和3(1617)年に富岡町と命名されてから220年余りを経過した天保8(1837)年の絵図で、新たな開発は終了し固定化された姿と観ることが出来ます。現在も此の町並みは富岡の重要な通りとなっています。

黄色の太線が現在の町並み、赤線は昭和の時代に拡幅された道路

現在の富岡の地図クリックで拡大画像

町の通りは(黄色の太線)で基本的には東西に長い町ですが、直角に何度も曲がる点に多きな特徴が有ります。此の地を治めた中野代官は、信濃の国にまたがる広大な天領地に代官陣屋を設け、角角には神社や仏閣を配置し、城構築に似た防御性の高い町並みを目指したとも言えましょう。

その後、中野代官は東海道筋天竜川流域の中泉(現・磐田市)の代官を命ぜられ富岡町を去ります。寛永10(1633)年には天領地であった富岡町は恒岡氏、筧氏、天野氏の3人の旗本の知行地(支配地の事)となり、この時点で天領としての代官屋敷は必要無くなります。 天和元(1681)年には、天野氏に変わり旗本の喜多氏となり、元禄4(1691)年に喜多氏に変わり竹田氏に変わります。この支配下は幕末まで変わること無く引き継がれました。

富岡町の広がり

1837年(天保8年)に作られた絵図(上図)と明治時代になっても富岡の町並みはほとんど変わらず、家々は街道の両側にそって線状に並び、江戸時代の町並みそのものです。 1907年(明治40年)には市街地が広がり線の町から、面の町へ変わってきました。 上町と宮本町に囲まれは富岡製糸場と接した地域は主に商店と飲食店が集まった町となりました。

明治40年の富岡の地図

1876年(明治9年)には、富岡製糸場と上町の間に芝居小屋(中村座)が出来、工女たち多くの見物人が訪れました。 後に、映画館も出来、娯楽の中心となり賑わいました。

宮本町の東、仲町の北の地域も町が広がり、郡役場、町役場、郵便局、警察署、小学校等の官公署が置かれましたが、現在の位置と同じなのは小学校だけです。 面の広がりでの大きな変化は、2001年(平成13年)の地図で住宅地が市街地から周辺地域へ大きく広がったことが判ります。

住宅や大型店は郊外に移動し、町の形が大きく変化しました。

平成13年の富岡のまち地図

   

Topページ>2ページ目
スマートフォンで閲覧するには以下のQRコードをスマートフォンで読み込んで下さい。

スマホ用QRコード

尾高惇忠 富岡製糸場 初代場長

尾高惇忠

ポール・ブリュナ
富岡製糸場の建設のために雇われたフランス人技師たち

ポール・ブリューナ

創業当時の繰糸場の写真

繰糸場

水分検査機
 
ポール・ブリュナが明治4年、フランスに発注した物、水分検査機

水分検査機

↑ PAGE TOP