富岡製糸場の工女には「あゝ野麦峠 - ある製糸工女哀史」のような貧困と過酷な労働が有ったのでしょうか?

繰糸場(繰糸所) 工女 和田(横田)英

工女 和田英

上の写真は、富岡製糸場で技術を学んだ工女の一人「横田英」です。後に結婚して「和田」となります。 繭から生糸をとるためには、女性の繊細な指で作業する必要がありました。 富岡製糸場の建物が完成に近づくと、明治政府は全国から工女を募集しました。 しかし、フランス人が生き血をとって飲むと言う噂が流れていたため、工女は中々集まりませんでした。 そこで明治政府は、なぜ工女を募集する必要が有るのか、その理由を何度も説明しました。 又、初代工場長となった尾高惇忠は、自分の娘を最初の工女としました。 そうした努力を重ねた結果、ようやく工女が集まりました。 ココで技術を習得した工女たちは、地元に戻った後指導者と器械製糸普及に貢献しました。

和田(横田)英 の富岡日記より

富岡製糸場へ工女として入場した時の経緯が詳しく書かれています。

私の身元

私の父は信州松代の旧藩士の一人でありまして、横田数馬と申しました。 明治六年頃は松代の区長を致して居りました。 それで信州新聞にも出て居りました通り、信州は養蚕が最も盛んな国であるから、一区に付き何人(たしか一区に付き十六人) 十三歳より二十五 歳までの女子を富岡製糸場へ出すべしと申す県庁からの達しがありましたが、人身御供に でも上るように思いまして一人も応じる人はありません。 父も心配致しまして、段々人民にすすめますが、何の効もありません。 やはり血をとられるのあぶらをしぼられるのと大評判になりまして、中には「区長の所に丁度年頃の娘が有るに出さぬのが何よりの証拠だ」と申すようになりました。 それで父も決心致しまして、私を出すことに致しました。 私も兼ねて親類の娘が東京へメリヤスを製しますことを習いに行きました時、私も行きたいと申しましたが、私より下に四人の弟妹がありまして、中々忙しゅうありましたから許しません。 残念に思って居りましたところでありましたから、大喜びで、一人でも宜しいから行きたいと申しました。 母はその時末の弟を妊娠して居りました(後で承知致しました)。 さぞ迷惑であったろうと後になりましてから思いました。しかし父がそのように申しますから何とも申しません。 第一許さぬと申しはせぬかと心配致しました。祖父は大 喜びで申しますには、「たとい女子たりとも、天下の御為になることなら参るが宜しい。 入場致し候上は諸事心を用い、人後にならぬよう精々励みまするよう」 と申されました時の私の喜びは、とても筆には尽されません。 さてこのようになりますと可笑しいもので、よいことばかり私の耳にはいります。 あちらへ行けば学問も出来る、機場があって織物も習われると、それはそれはよいこと尽し、私は一人喜び勇んで日々用意を致して居りますと、河原鶴子と申す方がその時十三歳になられますが、 「お英さんがおいでなら私もぜひ行きたい」と申されましたとのことで、父君もお許しになりました。 いよいよ両人で参ることになりました。(鶴子さんの父君は北越戦争の時松代藩より出陣の折、総大将で若松城に乗込んだ方であります。) 右様に取極めましたが、私はその前年当家(和田) へ縁組致します約束だけ致してありましたから、当家へも右の次第を話しますと、幸い主人も東京へ一ニヵ月内に学問修行に参る心組のところでありましたから、承知してくれました。 その時姉が一人ありまして、初子と申しました。 姉もまた、「お英さんが行くなら私も行きたい」と申しまして、直に行くことになりました。 さあこのようになりますと不思議なもので、私の親類の人、または友達、それを聞伝えて、我も我もと相成りまして、都合十六人出来ました。後から追々願書が出ましたが、満員で下げられました。

和田(横田)英は「富岡日記」このように記しています。

初代工場長 尾高惇忠の娘 尾高勇(ゆう)

 

尾高勇

尾高勇

尾高惇忠

尾高惇忠

尾高勇 1858 年(安政5)頃~ 1923 年(大正12)1月30日没   尾高惇忠の長女として1858 年(安政5)頃、現在の深谷市下手計に生まれました。 1872 年(明治5)14 歳の勇は、製糸伝習工女の第1号となります。 その背景には、製糸場の操業に向けて工女を募集したものの、 工女の募集は生き血を絞るためという噂のため、一向に応募者が現れなかったという事情がありました。 ことの次第を聞いた勇は、父の心中を察すると共に、新たな技術の習得に胸を躍らせて富岡製糸場への入所を決めたのでした。 勇の決断は同じ下手計村の少女たちを刺激し、松村倉(17 歳)をはじめ5人の少女が、さらに倉の祖母和志は62 歳の高齢ながら志願して入場し、工女取締役となりました。

尾高勇 和田英 等は女工哀史なのか?

「工女」と聞くと、「ああ野麦峠」などの女工哀史を思い浮かべてしまいませんか? しかし、明治初期の工女は「伝習工女」といって、技術の伝習を行うフランス人教婦から技術を学び、最先端の技術を学ぶパイオニアでした。 つまり、伝習工女は、研修期間を終え帰郷すると、その技術を地元に伝習する指導者となったのです。つまり、生活苦から工女になったわけではありませんでした。 このため、集まった伝習工女は、士族など地方の名望家の子女が多数を占めており、なかには、公家・華族の姫までいたので、地域の人は、伝習工女のことを「糸姫」と呼んだといいます。 また、工場での暮らしは、寄宿舎に入り、日曜日は休日とし、夜業は禁止されるなど、労働条件にも配慮され、演芸や祭りなどを楽しんだ、たいへん豊かで規律規範の正しいものでした。 何よりゆう自身が「自宅で養蚕をしていて、機械の仕事も楽しくできた」と語っているように、「自由で気楽」でありながら、最先端の技術を身に着け、そして指導者になるという、パイオニアとしての誇りも高く研修作業に臨んでいました。 「富岡工女の厚化粧」という言葉が生まれたように、工女たちは、外に出るときには綺麗に化粧をして オシャレにも気を使っていたようです。「富岡日記」にもこの一節があります。

富岡製糸場にも女工哀史的な歴史が有ったのか?

1872年(明治5年)から、1893年(明治26年)迄の官営時代には、過酷な労働は無かったと思われますが、1885年(明治18年)には、経営が黒字となり1893年(明治26年)迄黒字が続いていますので、 この頃には、伝習期間も既に終りを迎え、生産に重きを 置ています。「西南戦争」(西南の役 1877年明治10年)で莫大な費用を費やした明治政府は、官営工場を投げ売りしましたが、 富岡製糸場には買い手がつかず、明治政府は払下げに失敗しました。 (群馬県令の楫取素彦の進言によって売却を逃れたことになっていますが諸説あります。) 「赤字の工場は民間企業は買わない」と言うことから立て直しを図ることで、払下げの条件を良くして再び払い下げします。 この頃の工場長は3代目 の敏腕工場長「速水 堅曹」が返り咲き、4代目の岡野朝治は赤字決算のため失脚します。その後三井家、原、片倉の民営時代の工女の資料は少なく、岡谷やその他の製糸工場と同じような、待遇になっていたかは定かでありません。 富岡日記でも判るように、各地に製糸工場が建設され創業しますが、設備や条件は富岡製糸場は雲嶺の差で極悪な条件下で糸をとることになります。「ちきりん」(フォロワー170,000以上のツイッター )さんは2014年4月26日に「富岡製糸場って「元祖ブラック企業」じゃん。 それが世界遺産になるってことに、ブラック企業撲滅運動系のみなさんは、どんなご意見をお持ちなのかな。 やっぱり「絶対反対!」」運動を始めるのかな?とツイートしています。その 後の反応はこちらで確認して下さい。 又、ココに興味あるブログが有りますので、興味の有る方は覗いてみてください。喧々諤々の議論がされています。 日本のおカイコさん-2/富岡製糸場への疑問

参考資料:深谷市HP 深谷市のパンフレット(富岡製糸場と深谷市の偉人達)

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尾高惇忠 富岡製糸場 初代場長

尾高惇忠

ポール・ブリュナ
富岡製糸場の建設のために雇われたフランス人技師たち

ポール・ブリューナ

創業当時の繰糸場の写真

繰糸場

水分検査機
 
ポール・ブリュナが明治4年、フランスに発注した物、水分検査機

水分検査機

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